三川内焼の里めぐり

「唐子」の絵が描かれた焼き物の町、三川内皿山(みかわち さらやま)から発信します。

巨関の墓を探せ!

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画像は三川内皿山にある「陶祖神社」です。


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この神社には、三川内焼白磁の原料となる天草陶石を発見した如猿(にょえん 本名・今村弥次兵衛)を祀る神社で、拝殿奥にある本殿には「如猿大明神」と彫られた石碑が祀られています。



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この如猿の祖父にあたる巨関(こせき)は、文緑・慶長の役にて豊臣秀吉の指令により、平戸松浦藩主によって朝鮮から連行され、この地で陶芸に勤しみ、中里家の先祖である高麗媼(こうらいば)と同様、三川内焼開祖の功労者と云われています。

https://www.pref.nagasaki.jp/koho/plaza/dream/furusato04_1.html

その後、巨関は有田・黒髪山にて生涯を終えますが、明治43年に三川内へその亡骸とお墓を移したと伝えられていました。


しかし巨関の亡骸があるお墓の場所が見つからず、末裔にあたる親族も長い間調査を進めていましたが、

考古学者で元佐世保市教育委員会所属の久村貞男さんがこの度、解明にこぎ着けました。




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画像は明治44年出版の「三川内窯業沿革史」掲載の、当時の陶祖神社本殿の写真です。

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写真中央、向かって左側には「如猿大明神」の石碑が建っており、その横には真新しい石積みの基檀があり、この基檀こそが黒髪山から三川内へ亡骸を移された巨関の石碑だと云うことを解明され、その後拝殿が建立された昭和18年にこの基檀は撤収され、石積の一部を「如猿大明神」の石碑に積み上げられている事を発見されました。


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即ち、巨関のお墓は現存せず、亡骸は三川内皿山中腹に着くる「小谷墓地」の今村一統の墓に眠っているとの事でした。

(下の画像は「小谷墓地」にある今村家の墓で、丸みを帯びた石塔が「如猿」の墓。寄り添うように建っている2つの墓は、右側が如猿の父・三之丞の墓で、隣が三之丞の妻の墓です。)

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